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田中河内介
脚本 水木久美雄
絵畫 西 正世志
製作 日本教育紙芝居協會
(表紙の説明)
或る歴史家が、
『王政復古の土台は、鎮守様の神主と、
田舎医者の伜との協力で築きあげたのだ。』
と云ったが
神主とは、久留米の神官、眞木和泉守、
又、田舎医者の伜こそ、田中河内介である。
河内介は、文化十二年、但馬國出石藩香住(かすみ)の里(さと)で、
医師小森家の二男として生まれたが、
医者となることをこのまず
儒学や國学を修め、武術を研き
天保六年、京都に出で
中山大納言の家臣、田中近江(あふみ)介の長女増栄(ますえ)を妻とし
田中家をつぎ、田中河内介となり、中山家に仕へたのである。
(ぬきながら)
嘉永五年のよき日
皇子、中山大納言邸にて御降誕あらせらる。
(河内介)
『左馬介、我等は一日も早く、日本の國を、
聖天子の御世に還さねばならぬ。
此度、そちを九州に伴ったのは、
この事を充分、知って貰ひたかったからだ。
今に遠からず、世の中に驚くべき事が起るであらうが、
その時は、父が例へどのやうにならうとも、
さはがず、必ず、父の志を継いでくれよ。』
(左馬介)
『父上、その折は、左馬介も父上と死を
偕にしたいと存じます。
なにとぞ、左馬介も國事の為死なせて下さい。』
(短い間)
その昔、吉野朝の忠臣、楠正成公父子の誠忠が、
今あらたに河内介親子の心によみがへってくるのだった。
(ぬきながら)
九州の旅を終へた河内介親子が京都の臥龍窟に
歸ってから約一年の間
(河内介)
『なに、久光公は御家来一千余人と共に上京なされたと。』
(柴山)
『いかにも 二月二十五日御出発、江戸に下られる筈で御座る。
表面は参勤交代の期限遅延の御詫びであるが、
実は諸國の有志をひきゐ、一橋慶喜公を奉じて
義兵を東海にあげる御心で御座る。』
(河内介)
『かたじけない。我等の望やうやうにたたっし
この上ない喜びで御座る。』
(柴山)
『河内介殿、それについて貴殿始め同志の集合所で御座るが、
この臥龍窟ではとかく世間の目もうるさう御座るで
大阪の薩摩屋敷にうつされてはいかがと存ずるが……』
(河内介)
『ねがってもなき幸ひと存ずる。
柴山氏、なにとぞおとりはからひ下され。』
時が来た。
ねむれる龍は今や臥龍窟をすてて
大阪薩摩屋敷にうつるのである。
(ぬきながら)
それより早く、文久二年三月十六日
薩藩一千余人が鹿児島を出発した。
(奈良原)
『河内介殿、君命で御座る。
すぐさま寺田屋をひきあげ、御一同とともに、
京都より久光公の面前に出て頂きたい。
久光公は、とくと談合いたしたいと申されるのだ。』
(河内介)
『談合?談合致してどうなる。
もはや事は起って居るではないか。』
(奈良原)
『いや、久光公は、実は明夜を期して、
總員協力、事を起さうと思って居られるのだ。
河内介殿! 御一同もそれに加はられたらいかがで御座る。』
(河内介)
『奈良原氏、それはまことで御座るか。
しからば、一同京の久光公の御前にまかりこすで御座らう。』
(ぬきながら)
しかし、奈良原の言葉は眞赤ないつはりであった。
河内介等を捕へる為の口から出まかせであったのだ。
(左馬介)
『そんな筈はない。何かの間違ひだ。
父にも、それがしにも、再び起つ日まで
薩摩に居れと、乗船の折、そう云ったではないか。
我々は王政復古を見るまでは、
だんじて死ねない。
卑怯だ!船の中で殺す。
馬鹿な!そんな藩の命令があるものか。』
(河内介)
『河内介からも、おたづね致したい。
殺せとおほせられたのは、
それがし親子のみで、同志一同では御座らぬのか。』
(警衛)
『……如何にも、藩命で御座る……』
(河内介)
『左様で御座るか。同志一同無事と聞いて安堵いたした
同志さへ居るならば、
やがては、王政復古の大業もなるであらう。
左馬介、そちは父と死生を伴にする約束であったな。』
(ゆっくりぬきながら)
『ながらへて かはらぬ月を見るよりも
死して拂はん 世々の浮雲』