田中河内介
江戸末期、孝明天皇の6人のお子さんのうち、成人できたのは明治天皇ただ一人でした。当時の慣例では皇子の教育には女官が当たっていましたが、それでは軟弱に陥りやすいのでこれを排して一切男子だけが当たるように建言しました。河内介はみずから祐宮(さちのみや)(明治天皇)を背負い、のちに物心つくと子守唄代わりに孝経を口授するなど、五歳まで傅育に専念しました。
後年、明治天皇が彼のことを「河内介爺」と呼び、親しく思い出しているのは、厳しくも全霊を打ち込んだ河内介の教導に感じるところがあったのでしょう。明治天皇が生涯、河内介を慕っておられたことは侍従たちの証言からも容易に理解することができます。河内介の勤王精神の純粋さはここにそのルーツがあると言えます。
当時の河内介は幕府の相次ぐ失政に大きな不満を抱いていました。
持ち前の論理と弁舌で同志たちに倒幕を説いたのでした。それまで疑心暗鬼で、互いに対立していた諸国の志士たちが、藩士、浪人の別なく「倒幕」という大きな目標の前に団結できたのは田中河内介の呼びかけによるものだと言えます。
倒幕の胎動が大きなうねりを見せ始める傍ら、薩摩藩による公武合体の努力が実ろうとしているので、一挙は思いとどまるようにとの説得も虚しく寺田屋騒動が勃発し、寺田屋の座敷は血で塗り染められたのです。浪士鎮撫の勅命を受けていた島津久光はこの騒動を「内紛」として収めたものの、河内介父子ほか数名の「薩摩藩以外」の取り扱いに困惑しました。藩外の者が加わっているのに「内紛」とするわけにはいきません。まことに厄介者を抱え込んだものです。そこで、薩摩藩は、「薩摩藩お預かり」のために鹿児島に護送すると扮して瀬戸内海を搬送し、その途上で護衛者らに殺害させ、河内介父子らを亡きものにするばかりか、屍骸を海中に投棄して殺害事件そのものを「なかったもの」として消し去ろう、という策略を思いついたのです。
文久2 年5 月1日、小豆島福田海岸に打ち上げられた父子の遺体は、後ろ手に縛られ、足かせをかけて刺し殺されるという無残そのもの状態でした。また、日向細島(宮崎県)では縄付きの彼らをけものを扱うように追い回し、滅多斬りにしたとその非道ぶりが伝えられています。
江戸時代の武士は文武両道が求められていましたが、九州南端で鎖国のもとにあった薩摩藩には純粋な戦士としての武士が存在していたのです。福田浜に横たわった父子の屍体は薩摩武士の恥辱であり、鬼畜の所業である、河内介一党の殺害を薩藩勤王史の汚点として厳しく非難されています。
「維新史上最も悲惨な最後をとげた志士」とまで評された田中河内介は、最後が悲惨であるばかりか、埋没させられたうえに怪談で徹底的に封じ込められるという二重の悲劇を味あわされているのです。